アントニオ・ヴィヴァルディの生涯

ここではヴィヴァルディの年表をもとに、生い立ちから晩年に至るまで、その生涯を詳しく紹介していきます

ヴィヴァルディの年表

1678年 3月4日、ヴィヴァルディはジョバンニ=バティスタ・=ヴィヴァルディの長男としてベネチア共和国で生まれました。
詳細はヴィヴァルディの誕生と幼少期

1703年、ヴィヴァルディはベネチアにあった孤児院兼音楽学校、オスペダーレ・デッラ・ピエタ(ピエタ養育院)のバイオリン教師となりました。
詳細はヴィヴァルディの青年期(1)<ピエタでの音楽教師時代>

1705年、ヴィヴァルディは当時のベネチアの貴族であった、アンニーバレ=ガンバラ伯に献呈されたと言われている「トリオソナタ集」作品1を作曲しています。
詳細はヴィヴァルディの青年期(1)<ヴィヴァルディのトリオソナタ集>

1709年、ヴィヴァルディは「バイオリンと低音のためのソナタ集」出版、デンマーク国王(フレデリック4世)に献呈しています。
詳細はヴィヴァルディの青年期(2)<バイオリンと低音のためのソナタ集>

1711年、ヴィヴァルディは12曲の協奏曲集「調和の霊感(調和の幻想)」作品3を、アムステルダムのルセーヌ社より出版しました。
詳細はヴィヴァルディの青年期(2)<調和の霊感(調和の幻想)>

1713年、ヴィヴァルディはバイオリン協奏曲「ラ・ストラバァガンツァ」(作品4)を発表します。
詳細は<「ラ・ストラバァガンツァ」>

1713年、歌劇「離宮のオットー大帝」RV.729をベチェンツァで初演し大成功をおさめています。
詳細はヴィヴァルディとオペラ

1716年頃になるとピエタ養育院での音楽活動よりも、劇場を中心にオペラの作曲に力を注いでいたと言われており、オラトリオ「勝利のユディト」を作曲しています。
詳細はヴィヴァルディとオラトリオ

1718年、ヴィヴァルディはピエタ養育院の音楽教師としての契約を成立させることができず、止むを得ず新展地マントバへ赴くことになります。
詳細はヴィヴァルディとカンタータ<マントバでのヴィヴァルディ>

1720年にヴィヴァルディはマントバを去りますが、以後もマントバではヴィヴァルディの作曲したオペラが上演され、当時の人気ぶりをうかがい知ることができます。
詳細はヴィヴァルディの全盛期(1)

1725年にフランスの ルイ15世の結婚を祝うセレナータ「栄光と結婚」を作曲し、フランス宮廷に3曲のセレナータを献呈しています。
詳細はヴィヴァルディの全盛期(2)<「栄光と結婚」と3曲のセレナータ>

1725年には、ヴィヴァルディの代表作<和声法とインベンションの試み「四季」>も出版しています。
詳細はヴィヴァルディの全盛期(2)<「四季」の誕生>

1728年、ヴィヴァルディは神聖ローマ皇帝カール6世に拝謁する機会に恵まれ、バイオリン協奏曲集「ラ・チェトラ」を献呈することになります。
詳細はヴィヴァルディの円熟期(1)<「ラ・チェトラ」の献呈>

1729年には、史上初のフルート協奏曲集でもある「フルート協奏曲集(作品10)」や「バイオリンとオーボエの協奏曲集(作品11)」、「バイオリン協奏曲集(作品12)」などを作曲し、出版しています。
詳細はヴィヴァルディの円熟期(2)

1730年以降、晩年のヴィヴァルディは、以前よりも更に精力的に、オペラの作曲と興行師の活動を継続していました。
詳細はヴィヴァルディの晩年(1)

1737年に、フェルラーラのトマゾ=ルッフォ枢機卿より、聖職にふさわしくない生活をしていると言う理由から、教皇領フェルラーラへの立ち入りを禁止されてしまうなど、それ以降も挫折の日々が続きます。
詳細はヴィヴァルディの晩年(2)

1740年には、ピエタのためにシンフォニアを作曲していますが、これはむしろベネチアとの別れを告げる作品になるのでした。
詳細はヴィヴァルディの晩年(3)<シンフォニア>

1740年、ヴィヴァルディはウィーンへの移住を決意し、オーストリア南部のグラーツを目指します。
詳細はヴィヴァルディの最期(1)<ウィーンへの移住>

1741年7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲者宿舎にて永眠となります。
詳細はヴィヴァルディの最期(2)

ヴィヴァルディの没後

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