アントニオ・ヴィヴァルディの生涯

クラシック音楽を代表する名作曲家「アントニオ・ヴィヴァルディ」について解説しています

ヴィヴァルディの最期(1)

ここではヴィヴァルディの最期(1)として、1740年(60歳)以降の主な活動やエピソードなどを紹介していきます。

ウィーンへの移住

1740年、ヴィヴァルディはかねてから構想していたウィーンへの移住を決意し、オーストリア南部のグラーツを目指し、6月28日にはウィーンへ到着しています。
この移住の理由には、先に触れたフェルラーラでの惨事など、ヴィヴァルディを取り巻く生活環境の変化な背景があったと考えられます。
またこの頃から、ベネチアを始めとする近隣都市では、常に新しい音楽の流行を求める風潮が更に強まっており、ヴィヴァルディの音楽はすでに過去の産物とみなされるようになっていました。
残念ながらヴィヴァルディの人気は、既に失われており、かつての栄華はとうに失せていたのです。

ヴィヴァルディは最期まで音楽への飽くなき追従と、その創作をけして止めることはありませんでした。
しかしながら、晩年においては、自分が確立しようとしていた革新的な音楽の理解を、地元ではなく、その他の地域へ広げざるを得なかったという背景があります。
これには、すでにピエタを退職していたこともあり、安定した収入も期待できなくなったヴィヴァルディにとって、生活をしていくうえで経済的な事情もその理由の一つと考えられます。

おそらく時代の変化という見えない暗闇の中に、自身がまた自己の作品が消えていくようで、それはヴィヴァルディにとっても計り知れない恐怖となっていたのかもしれません。
ところが、ヴィヴァルディは最期までかつてのように、「またまだ自分はやれるはずだ」と信じて止まなかったと思われます。
まさに、ヴィヴァルディの性格の特徴でもある、時代に打ち勝とうする強い精神力は、たとえ老体であっても、強いエネルギーに変える原動力となったことでしょう。

ヴィヴァルディの臨終

ヴィヴァルディはウィーンに移りまもなく、当初の志を果たせぬまま、1741年7月28日、ケルントナートーア劇場専用の作曲者宿舎にて臨終を迎えます。

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